琴引山【島根県飯南町】4K-Iinan town Shimane Japan-

山頂からは三瓶山、日本海はるか隠岐島まで展望され、オオクニヌシの国造り構想が琴引山で練られたという神話から雄大な古代ロマンがうかがえます。 また、古くから地元の方に愛され大切にされ弥山(みせん)と呼ばれていた事からも、古来より信仰を集め、重要な存在であった山とされています。

【オオクニヌシ神の琴】

飯南町にある琴引山(1,014m)は、古くから神話の山、中世修験道の聖地、牛馬安全の信仰の対象、現代では子ども病気平癒に霊験あらたかとして信仰を集めてきました。

山の名前の由来を紐解くと・・今からおよそ 1,300 年前につくられた『出雲国風土記』には、この山の峰の窟屋に、オオクニヌシ神の琴がある。だからこの山を琴引山という。と記されています。

オオクニヌシ神は演奏家?と思われるかもしれませんが、古代において『琴』は神のお告げを伺う祭器として特別な存在でした。

『古事記』にはオオクニヌシ神がスサノオ神のもとから、太刀・弓矢・琴を盗み出すエピソードが掲載されていますが、このお話は、スサノオ神からオオクニヌシ神への権力の委譲を物語っていると言われ「太刀・弓矢」は、武力の象徴、「琴」は民衆を治める政治力の象徴とされています。

オオクニヌシ神は、この2つの力を得て、地上世界の王となった訳ですが、オオクニヌシ神にとって、「琴」は、特別な存在であることがわかります。その琴を納める琴引山は・・・古代出雲地方にとって、また、オオクニヌシ神を祀る集団にとって特別な山であったといえるのではないでしょうか。

【全国の神々が降り立つ山】

旧暦の10月全国の神々は、次の年の縁結びの会議をするため出雲大社へお集まりになるという話は有名です。

すべての神様が出雲へ行ってしまうため、全国的にはこの月を、「神無月」、反対に出雲地方では「神在月」と呼んでいます。

八百万の神々は、先ず、出雲国の琴引山(飯南町 1,014m)へ降臨し、琴引山を源流とする神戸川を下って、日本海へ出て、稲佐浜から出雲大社へお入りになると言われています。

今からおよそ 1,300 年前につくられた『出雲国風土記』には、神戸川の源を琴引山と記し、「神様たちのゲート」を意味するのでしょうか?神戸川を「神門川」と表記しています。

琴引山の山頂近くには、出雲大神オオクニヌシ神を祀る琴弾山神社が鎮座し、毎年9月23日前後に例祭が行われています。

この例祭の同日、琴引山山頂では、全国の神々が降臨する神在月に先立って、山 を清める「神迎え神事」が行われ、多くの参拝者が山頂に集います。

【スセリヒメ神との旅立ち】

『古事記』によると・・・ オオクニヌシは、寝ているスサノオのもとから娘のスセリ姫、太刀・弓矢・琴を略奪し、スサノオの試練を 克服し、地上世界の王となったと記されています。その後の物語を地元ではこう伝えています。

「オオクニヌシ神は、根の国から脱出した後、スセリ姫と一緒に琴引山に登り、琴を奏でながら出雲国の国づくりについて考えを巡らせました。二人は琴引山の山頂から、遠く出雲平野を見渡し、これから鎮まるべき場所を仲睦まじく相談し、その場所を、稲佐の浜が大きく湾曲するあたり、杵築の山のふもとの場所に決めました。今の出雲大社があるところです。」

琴引山はオオクニヌシ神による出雲の国づくりの原点です。

また、琴引山はオオクニヌシとスセリ姫の縁結びの地、2人で訪れた新婚旅行の地といえるかも知れません。

    
スセリヒメと出雲平野を見渡す。

【こどもの病気平癒に霊験あらたか】

飯南町では子どもの「疳の虫」「ひきつけ」を「ちりけ」といいます。

琴弾山神社は、古来より、この「ちりけ」封じに霊験あらたかとして、お祭の日には、幼い子どもを連れた親子で賑わっています。

【中世には修験道の聖地】

山岳信仰の栄えた中世には、琴引山は修験道の聖地として信仰され、山頂付近には42坊の僧坊が立ち並んだと伝えられています。

赤来町史によると、現在、琴引山の麓に所在する西光坊(野萱)、万善寺(下 来島)、西蓮坊(下来島)などは、この42坊が里へ下山したものとしている。琴引山山頂付近には、僧房が立ち並んだとされる平坦地や建物の礎石が残り、往時の光景を物語っている。

【稲作神オオクニヌシにとってもハズセナイ山 琴引山】

あの!水戸黄門(水戸光圀)がつくりはじめたといわれる『大日本史』に 『オオクニヌシ・スクナヒコナ・スセリヒメは、はじめ大神山(大山)に御座し、次、出雲国由来郷(飯南町頓原)に来座し、百姓に鋤鍬を授けて、農事を教え給う、その地を 田鍬と云う、その後、琴引山に登り座し、石見の佐比売山にいたり・・・』という記録が残されています。

飯南町の由来八幡宮は、「田鍬」という地域にあり、もともと琴引山の遥拝所としての宮であること、由来八幡宮には、米そのものを神とする「姫之飯神事」という古い神事が残っていることなどからも、オオクニヌシと米作り、オオクニヌシと琴引山の深いつながりを知ることができます。

また、国引きの神話の杭とされ、山陰地方を代表する大山、三瓶山とともに併記される琴引山の認識度の高さ、特別感が伺われます。

【由来八幡宮に伝わる姫之飯神事】

琴引山のふもとに鎮座する由来八幡宮には、「米」そのものを神として祀る姫之飯神事という神事が伝わっています。

神事は、神職が巫女に扮して米が餅になるまでの過程を素朴な舞で表現する厳かなものですが、一粒の種が多くの米を実らせる力への畏敬、多くの人を養う米という食物に対する感動といった、米に出会った人々が抱いた思いが表現されているように感じられます。

この地域には、 「琴引山のオオクニヌシが春には里に下りてきて豊作を授け、秋には山へ帰っていく」 「オオクニヌシが山へ帰られた秋の寒露から春の清明までは「山止め」と称して琴引山へは立ち入らない」 といった言い伝えや風習が残っていて、琴引山を介したオオクニヌシと稲作の深いつながりがりを今に伝えています。

    
姫之飯神事
稲穂を荷なって舞う姿は、稲荷信の起源に関わる貴重な姿とされる。

【オオクニヌシの琴はどこに?】

『出雲国風土記』が伝えるオオクニヌシの琴があるという岩窟はどこなのか?古来より何ヵ所かの候補地が現代に伝わっています。

みなさんはどう思われるでしょうか?

第一候補は、琴弾山神社そのものというご意見。琴弾山神社は巨岩の奥に鎮座しており、まさにここが聖域といった感じは今も変わらず最有力といった感じ。

次は「大神岩」。

『出雲国風土記』研究の第一人者である加藤義成さんも、この大神岩を推します。

今現在では一番メジャーどころといえるでしょう。

数十年前には実際、この岩の中に琴があったよ!といわれる現代の古老もいるほど。

第3の候補地はこの「穴神琴弾岩」という場所。

お社も祀られていてその右側には奥深い洞窟があり、雰囲気もたっぷり。

【謎の宝きょう印塔】

琴引山は 1,014m。その山頂には、いつ誰が建てたのか?不明な宝きょう印塔の礎石部分が今も残っています。

一説によると、出雲国・石見国・備後国が見渡せる琴引山の山頂にこれらの領域の支配者として君臨した尼子経久が戦の必勝を祈願し建てたものとも、同じく戦国時代、毛利元就の大軍に尼子氏への忠義を貫き、琴引山の要塞にたてこもって奮戦、討死した烏田勝定を弔うものとも言われています。

宝篋印塔の「笠」と「塔身」と思われる部分も残る貴重な写真昭和 30 年代の撮影

【中山通郷(琴主)奉納「八雲琴」発見!?】

「八雲琴」とは・・・ 江戸時代(1820 年ごろ)、伊予国の中山通郷(別名:中山琴主)が出雲大社の霊夢のお告げにより、現代によみがえらせた古代の二弦の琴(天詔琴:あめのぬごと オオクニヌシがスサノオのもとから持ち出した神器)を言います。

中山通郷は、八雲琴の創始者として出雲大社を訪問した際、琴引山の存在を知り、琴引山にある琴弾山神社に参拝し八雲琴を奉納したと言われています。

そして、近年、その琴の存在が確認されたというのです。

写真が中山通郷が奉納したとされる由緒の「八雲琴」。

「二の弦に神の御霊のこもるらむ 琴引山の松風ぞ知る」 伊予国二名島乃産 八雲琴の祖山中八雲宿禰琴主という歌も添えられています。

通郷奉納の八雲琴。真偽のほどやいかに!!